▼ 目次
イントロダクション
01|ページを捲る指先
02|迷い込む足音
03|共鳴する沈黙
04|痕跡を残す
05|夜を閉じる
エンディングノート
登場人物・器と関係
用語設定
VAL制度評価タグ
作者ノート
画像プロンプト
▼ イントロダクション
2085年、旧・東京都心圏、神田神保町。
ここには、都市を覆う電子の「羽音」がない。
VALの常時接続が切断された「第23保存区画」。古びた書棚の列が、防音壁のように外界の喧騒を遮断している。
アヤノは帳場に座り、鉛筆を走らせる。黒鉛が紙の繊維に食い込み、微かな摩擦音を立てる。
そこには、デジタルな同期(シンク)も、共感のスコアもない。
ただ、質量を持った「沈黙」だけが、埃と共に降り積もっている。
01|ページを捲る指先
午後3時の日差しが、磨りガラス越しに琥珀色の帯を作っている。
「書肆 あやの堂」の空気は、外の世界よりも少しだけ重い。それは情報の質量ではなく、時間の澱みだ。
アヤノは16歳。FLOAT制度圏の教育課程にありながら、放課後をこの「墓場」で過ごすことを選んでいる。
彼女の指先は、薄い紙の端を捉え、ゆっくりと捲る。
カサリ。
その音は、SynFieldの触覚フィードバックには決して再現できない、不確定な揺らぎを含んでいる。
「……手で書くって、非効率だって言われるけど」
独り言が、誰に届くこともなく空気に溶ける。
VALはすべてを数値に変換し、最適化する。だが、この空間にある数万冊の本は、その計算からこぼれ落ちた「余剰」だ。
誰にも見つけられず、誰にも評価されず、ただそこに在る。
アヤノはその「不在」の重みを、指先で確かめるように愛していた。
02|迷い込む足音
入り口の引き戸が、重たい音を立てて開いた。
現れたのは、小さな少年だった。
首元にVAL端末のチョーカーがない。FLOAT圏外からの「迷子」か、あるいは意図的な「非接続者(アンプラグド)」の子か。
少年は、書棚の迷路に圧倒されたように立ち尽くしている。
「……いらっしゃい」
アヤノの声に、少年がビクリと肩を震わせる。
彼は、都市のARレイヤーに慣れきっているのだろう。何の情報タグもポップアップしない「生の物質」に、恐怖すら感じているように見えた。
「これ、なに?」
少年が指差したのは、平台に置かれた一冊の絵本だった。
背表紙が焼け、角が擦り切れている。
「それは『本』。……情報の、化石みたいなもの」
アヤノは静かに答える。
少年はおずおずと手を伸ばす。その指は、ホログラムを操作するように軽く、頼りない。
だが、紙の表紙に触れた瞬間、彼の指が止まった。
「……冷たい」
物質の温度。それは、彼にとって未知の入力だった。
03|共鳴する沈黙
少年は、絵本を開いた。
『ぐりとぐら』。かつて数えきれぬ子どもたちが愛した、野ねずみの物語。
アヤノはカウンターから動かず、ただその背中を見守る。
VALの「共感(Empathy)」は、他者との感情の一致を計測し、スコア化する。
だが、今ここで起きていることは、それとは違う。
少年は、黄色く描かれたカステラの絵を、じっと見つめている。
匂いもしない。味もしない。温度もない。
ただのインクの染み。
けれど、少年の喉が、ごくりと鳴った。
「……おいしそう」
その呟きは、スコアに換算されない。
彼の身体が、過去の記憶(あるいは遺伝子に刻まれた飢餓の記憶)と、目の前の色彩に反応している。
それは「共感」という社会的な合意形成ではなく、もっと原始的な「感応(Resonance)」だ。
世界が、身体を通して開示される瞬間。
アヤノは、その奇跡のような「ズレ」を、呼吸を止めて見つめていた。
SynFieldの波形はフラットのままだろう。けれど、少年の内側では今、世界が再構築されている。
04|痕跡を残す
「タカシ! こんなところにいたの!」
鋭い声が、静寂を切り裂いた。
母親らしき女性が、入り口に立っていた。彼女のHUDは赤く明滅し、警告色を放っている。
「ごめんなさい、勝手に入って……。ほら、行くわよ」
母親は少年の腕を引く。その手つきは、汚染物質から子供を引き離すように急いている。
「……うん」
少年は抵抗しない。だが、その目は名残惜しそうに絵本を見つめていた。
「お騒がせしました」
母親はアヤノに一瞥もくれず、逃げるように去っていく。
再び、静寂が戻る。
しかし、何かが変わっていた。
アヤノは平台に近づく。
絵本の表紙には、少年の指の跡が、微かに湿り気を帯びて残っていた。
それは、彼がここに「居た」という、紛れもない証明。
VALには記録されない、たった一度きりの接触。
「……またね」
アヤノは指跡にそっと自分の指を重ねる。
外では、夕暮れのチャイムが、制度の終わりと始まりを告げていた。
書肆の片隅で、評価されない種子が、静かに芽吹こうとしていた。
05|秘密を分かつ
翌日の夕暮れ。
再び、引き戸が開いた。
アヤノが顔を上げると、昨日の少年が立っていた。
けれど、今日は一人ではない。
後ろに、もう一人、同じくらいの背丈の少女が隠れている。
「……ここだよ」
少年が小声で囁く。
二人は、冒険者が宝の地図を辿るような慎重さで、書棚の間を進んでくる。
アヤノは息を潜める。彼らの「冒険」を邪魔してはいけない。
少年は、昨日の絵本の前で立ち止まった。
「これ」
彼は少女の手を取り、その表紙に触れさせる。
「……ほんとだ」
少女が目を見開く。
「冷たい」
「だろ?」
少年は少し得意げだ。
そして二人は、顔を見合わせて笑った。
音のない、けれど確かな共鳴。
VALのネットワークには接続されていない。誰にも通知されない。
けれど、二人の間には今、世界でたった一つの「秘密」が共有されている。
アヤノは帳場の奥で、その光景を静かに見守る。
種子は、芽吹いただけではない。
根を広げ、隣の土壌へと繋がり始めたのだ。
▼ エンディングノート
VAL-IQシステムは、個人の共感をリソースとして管理する。
だが、ここで起きたのは、管理外の「接続」だ。
一冊の絵本を介して、少年と少女は、制度の及ばない場所で手を繋いだ。
それは、かつて人類が「友情」や「秘密」と呼んだものの、最も原初的な形かもしれない。
アヤノが守る書肆は、ただの墓場ではなかった。
ここは、新たな関係性が生まれるための、静かな揺り籠なのだ。
そして、その微かな震えは、ASTRAの深層記録に、新たなカテゴリとして刻まれることになる。
『観測対象:共有された感応(Shared Resonance)』
▼ 登場人物・器と関係
- アヤノ:第23保存区画の古書店主。16歳。子供たちの秘密の共有を、静かに見守る守護者。
- 少年:昨日の迷子。発見した「感覚」を、大切な誰かに伝えたいと願った。
- 少年の友達:少年に連れられてきた少女。未知の感覚を共有し、共犯者となる。
▼ 用語設定
制度
- VAL-IQ:感性・行動・社会信用を統合スコア化する制度。共感を資源とする。
- 第23保存区画:情報統制から部分的に除外された領域。紙媒体などの「非効率」が許容されている。
装置
- SynField:感情や感覚を共有・増幅する場。ここでは遮断されている。
- HUD:視覚情報に重ねて表示されるインターフェース。
世界観
- FLOAT自由圏:VAL制度が適用される主要都市圏。
- 神田神保町:かつての古書店街。現在は保存区画として、過去の遺物を保管する機能を持つ。
▼ VAL制度評価タグ
VAL:
CORA: “Unclassifiable / Null Context”
PoSnt: “Collective Resonance Detected (Local/Secret)”
SCO: “Preserved Object / No Score Assigned”
ASTRA: “Phenomenon ‘Shared Secret’ Archived”

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